エトルリア文化とペルージャ

 

 

エトルリアは、「謎の民族」と呼ばれている。
それは文字が解読されていないからである。
しかし、古代ローマが興る前、イタリア中部で高度な文明を築いていたことは確かである。
エトルリアは「滅亡」したのではなく、ローマに「同化」して姿を消した。その繁栄の痕跡が現代の街の中に生き続けている唯一つの都市がペルージャである。

ペルージャは中部イタリアに数あるいわゆる山上都市の一つで、標高493mの位置にある。
古代において、始めにこの地域に住んでいたのは「ウンブリ人−umbri」であった。ウンブリ人の足跡については、全く解っていないと言っていい。しかし、現代でもウンブリア州という州名としてその名を遺している。その州都がペルージャである。
遅くとも前5世紀に、ウンブリア人が住むこの地に、エトルリア人が現れて城壁を築いた時からペルージャの歴史は始まる。
エトルリア人の起源については3つの学説があって結論に至っていない。しかし、いずれにしても、高度の武力と文化を備えていて、原始的なウンブリ人を征服、あるいは放逐したことは間違いない。

エトルリア人は、統一国家を形成しなかったが、北はポー河流域まで都市を建設して行き、エトルリアの12の都市同盟(ゆるやかな連合体)を結成する。この方法が、後にローマ人に引き継がれる。各都市国家は、初め王政であったが、やがて大地主・商人などの貴族の手に政権が移った。その下には奴隷化された先住民や隷属的農民があり、貧富の差は甚だしかったと推測されている。貴族の財力は大きく、ギリシャには無いアーチの原理を東方から導入し、それを大いに利用して大きな都市建造物・橋梁・墳墓・港湾設備などを造った。このアーチの原理もまた、ローマに受け継がれて行くのである。

Perugia

葡萄栽培とワイン造りも、ギリシャ伝来と言われているが、ローマはエトルリア人からも受け継いでいたことは確かである。

やがて前4世紀頃からローマのエトルリア侵攻が始まり、12の都市は相次いでローマに征服されることになる。ペルージャも前295年、山麓のセンティーノの戦いで決定的な敗北を帰し、ペルージャのエトルリア時代は終りを告げた。

ペルージャの最も高い地域は城門と城壁に取り囲まれているが、エトルリア人が前3世紀頃築いたもので、その大部分が残っている。
エトルリア文化の遺物が殆ど墳墓の中からの発掘品で占められている中で、地上に残る数少ない建造物を有しているのがペルージャである。
ペルージャの市民はそれを誇りに思い、エトルリア文化の遺構を大切にしている。